120年前の2つの火災と電気安全

「安全と健康」誌、2010年10月1日発行

プロフィール

  • 教授 三上 喜貴 (みかみ よしき)

1975年東京大学工学部計数工学科卒業。通商産業省入省。情報政策企画室長等を経て、1997年長岡技術科学大学技術経営研究科教授。安全の制度設計に関する研究に従事。慶応義塾大学政策メディア研究科より博士号。

120年前の2つの火災と電気安全

今回は、約120年前の電気事業黎明(れいめい)期、日米両国それぞれの電気安全のあり方に大きな影響を与えた二つの火災を取り上げる。

  • 1893年のシカゴ万博と保険会社の反応

 電気の利用は日米ほぼ同時に始まった。エジソンの会社(後のGE)がニューヨークで発電所の営業を始めたのは1881年。日本では、その翌年に東京電灯(後の東京電力)が営業を開始した。両国において、夜間照明を最も早く導入したのは夜も休まない工場であり、その初期には火災が頻発したようだ。
 ファクトリーミューチュアル保険の主任技師は、1881年にニューイングランドで電灯照明を導入した同社の付保対象65工場のうち、半年間に23工場で火災が発生したと報告しており、これに対処すべく、各火災保険会社は電灯設置基準を作成した。米国で電気安全に真っ先に反応したのは保険会社であった。
 しばらくして、1893年に開催されたシカゴ万博では、電球10万本が使われて電気の時代の幕開けを世に知らしめたが、その陰で、会場には頻繁に消防車が出動せざるをえなかった。これに手を焼いた保険会社は、ある電気技術者を雇って電気設備の徹底検査に当たらせた。この技術者こそ、検査機関Underwriters Laboratories社(米国保険業者安全試験所)の創設者メリルであった。

  • 1891年の帝国議事堂炎上と政府の反応

 日本では、1891年1月20日未明に起こった帝国議事堂の火災が、電気安全に関するその後の制度設計を方向付けた。第1回帝国議会が迎えた最初の冬、まだ珍しい電灯照明を施した木造の仮議事堂が全焼するという惨事が起こった。「引込線の上を火が走った」などという流言が飛び交い衆議院書記官長は電灯原因説をとった。真の原因が解明されぬまま、逓信(ていしん)省は各地方長官に対して「電気事業を営むものがあるときは、取締方法を定めて逓信大臣の許可を受け、しかる後に事業を許可せよ」と訓令した(電気事業が経済産業省の所管となるのは戦後である)。当時の地方官庁には電気安全などを審査する能力はなかったが、例えば東京府では、警視庁が電気事業取締規則を定めて事業認可の基準とした。この規則には、落成検査、技師長の配置、電気工作物の試験などの規定がおかれ、政府による電気安全規制の骨格が定まった。
 火災の直後、わが国電気工学のパイオニア志田林三郎は「電灯の安危を論じ云々(うんぬん)」と題する長文を電気学会雑誌(第32号、1891年3月号)に寄せ、電気事業者は施設の検査を怠らないこと、しっかりした知識を持つ電気技師を雇うことなどを提言しているが、保険社の積極的な反応や民間のイニシアチブによる検査機関の誕生は、当時の日本では望むべくもなかった。
 こうして120年前に日米は異なる二つの道を歩み始めた。近年、日本の仕組みも次第にグローバルな制度に歩み寄りつつあるものの、まだ隔たりは大きい。官民学がともに考えなくてはならない課題である。